長崎・フランシスコ会修道士

谷 華(しろし)

 戦災を受けた岡山の街を、暑い陽射しに汗を拭きながら、たずね歩いた末、やっと見つけた弓之町の教会、その前を行きつ戻りつ、中に入るのをためらって数十分、思い切って教会を尋ねました。

 昭和21年8月初旬、岡山教会を初めて訪問したことは、私にとって一つの転機になりました。

 その日はハマヘル神父様がお留守で、鎌田神父様がおられましたが、急ぎの用事ですぐ出かけるからまた来て下さいとのことで、その時はゆっくり出来ませんでした。

 それから数週間後、また岡山教会を訪問致しました。初めてハマヘル神父様にお会い致し、いろいろとお話しすることが出来ました。神父様は余り上手ではない日本語で、熱っぽく、ゆっくりと話して下さいました。温かい心の神父様でした。

 震災で焼けた教会の復興には、鎌田神父様の並々ならぬ努力があったと聞いております。

 私が生まれて育った美作苫田から香川県の直島精錬所に働きに出たのは、その年の11月でした。12月から玉野市玉の古我さんのお宅で二週間に一回、ハマヘル神父様から公共要理をならい始めました。公共要理の本を使わないで、新約聖書と、「求道者の教理研究」という本の二冊がテキストでした。19歳ぐらいのお嬢さんと一緒に勉強したせいか、楽しくて、一度も欠席しませんでした。

 昭和22年の春、神父様のお招きにより、岡山教会の復活祭のミサにあづかりました。大勢の信者さん達が、心を一つにして祈り、歌っておられるお姿には、心を打たれました。

 その年の4月終わり頃、ハマヘル神父様のお奨めによりまして、広島市外の長束に移り、修道院の仕事を手伝いながら教理の勉強を致しました。

 昭和22年6月13日、聖心の大祝日に洗礼の恵みに浴し、深い感動を覚えました。

 

 

(岡山カトリック教会百年史より、以後岡山教会の思い出が綴られていますが、玉野市から外れるため、略)